その日は、人手不足でずっと他のお客様の相手をしていた。
だから、その人が待っているその部屋に着いたのはもう六ツ時で。
身分が保証されている方だし、明日の七ツ時までお相手するのは目に見えていたので、あたしはその人を待たせていた事をさして悪いとも思っていなかった。
その人は、部屋の奥に独り佇んでいた。
そうっと侵入してきたあたしに気づいているのかいないのか、庭に面した戸を開けて茜色の空を熱心に眺めていた。
赤い夕日はその人の中性的な美貌を美しく照らしていて。
冷たい隙間風が部屋に入り込んで、悪戯にあたしの頬を掠って通り過ぎた。
「っくしょっ!!!」
思わずクシャミがひとつ出る。
「……遅い。案じていたぞ。」
空を見上げたまま感情を押し殺した声で呟くと、その人はゆっくり部屋の襖戸近くのあたしを振り向いた。
赤い光に照らされているせいもあって彼のすらりとした細身な身体は儚げで。
ほうっと、思わず溜息が零れ出た。
こんな綺麗な男の人も世の中にはいるものなんだと、あたしは会う度に驚く。
この方とはもうかれこれ二、三年の付き合いだった。
京都に住んでおいでだから、滅多に会えない。
でも、江戸に来るたびにあたしの所に連泊する。
朝廷の帝と縁故のある由緒正しき九条家の方だから、常連でさえ滅多に許されない連泊もあたしと店が許可すれば可能なのである。
それはいいとして。
確かそれは三年前の秋。
幕府に呼ばれた朝廷や公家の公達が、彼らの接待を受けて江戸の梅山に遊びに来た時に、このお方が混じっていた。
九条夕雲。
兄である九条家の主の代理で、江戸に来ていた。
その時その人は。
エロ根性丸出しでうわついていた他の客連中の中でただ一人、冷たく侮蔑した眼差しで彼らを見つめていたのを覚えてる。
お客の中で一人異彩を放っていた美人さんだったから、他の遊女も放ってはいなくて。
なのに、お酒を注ぎながら彼にしなを作って見せる女達の色香攻撃にも眉一つ動かさずに、ただもくもくとお酒を飲んでいた。
その日の宴が盛り上がりのピークをみせた頃、彼は誰にも断らずに無言でスッとその場から消え去った。
それに気づいたのは、あたしだけで。
他の方のお酌をしていたあたしは、何故だか彼の様子が気になって持ち場を離れ揚屋中を探し回った。
彼は中庭にいた。
丁度今日の九条様のように、一人、腕を組んでぽかんと宙を見上げていた。
あたしは声をかけてみた。
「夜風は体に良くないですよ~~~っ。」
しぃーーーんっ。
無視っすか。
あたしは大声でもう一度言ってみた。
「よ~か~ぜ~は~か~ら~だ~に~―――。」
「そのように大声を出さずとも私には聞こえる。」
袴を履いて刀を差していなければ女と見まごう美しい顔の、長い睫毛に縁取られた色の薄い瞳が空ろに彷徨ってあたしにたどり着いた。
「なんだ、聞こえるんじゃない。なら一緒に中に入りましょっ。」
あたしは彼の着物の裾をひっぱった。
「……。お前は遊女か?」
「は?」
彼はいきなり、不可解な質問をぶつけて来た。
つーか君。
今自分が何処に居るのか分かってるの??
「お前は遊女かと聞いている。」
あくまで無表情のまま、感情の無い声で聞いてくる。
「あの~、あたしさっきまであなた達のお酌をしてたんですけど…。」
「…そうか。気づかなかった。あのようなやかましい所によくいられるな。」
彼はまた宙を見つめながら独り言みたく小さく呟いた。
「んまあ…仕事ですから…ねぇ…。」
「同じだと思ってな。」
ポツンと呟く。
「は?」
「夜空の星は、ここも、京も、私が幼年時代を過ごした吉野も同じだと思って見つめていた。」
あたしもつられて夜空を見上げる。
青い天に白い絵具を振りまいたような星がキラキラと輝いていて。
でもそれ以上に、星の光に照らされた隣の男の人の顔が言葉で表せないほど非人間的というか、美しくて息を呑んでしまった。
どれ位経ったのか。
あたしはじーっと彼の顔を見つめていたことに気づいて赤くなり、彼の手を引いた。
「さっ、そろそろ中へ入りましょう。」
一瞬その人はビクッと震えて、そして思いっきりあたしの手を振り解いた。
「わ、私に触るなっ。」
「は??」
触るなって…。
突然の大声にこっちが驚いた。
でも、彼の顔を見たら微かに両頬が桜色に染まっていて。
照れてる??
「あ、ごめんなさい。」
「……許す。し、知らないお、おなごに触られるのなど初めてだったから…。」
どもりながら説明すると、顔をプイっと横に向けた。
ってオイ、君はどう見てもあたしと同年齢なのに…。
触られた事ないの?
妻帯しててもいい年なのに?
「別に知らないおなごに触られたからって減るもんじゃないし、痛いもんじゃないんだよ。」
と言ってあたしは今度両手で彼の方手を握ってみた。
「…なっ…。」
彼は驚きで、目をパチクリさせていた。
「あたしは、松田屋の木蘭っていうの。ほら、もう知らないおなごじゃなくなった。それよりこういう所は初めてみたいね。」
あたしは握っている手に力を入れた。
「人肌ってぬくいでしょ?」
「……。」
彼はあたしと視線を合わさず、あたしの手を振り払った。
「夜風が冷たくなってきた。わ、私は中に戻るっ。」
そう言うが早く。
彼は背を向けて大股で立ち去ってしまった。
「え…??」
残されたあたしはしばらく呆然と立ち尽くして、慌てて彼を追って部屋に戻った。
それから彼は何度か松田屋に足を運んでくれた。あたしを指名してくれるに至るまでに約二年。
まあ、滅多に京からいらっしゃらないってのもあるんだけれど…。
同衾は…実の所未だ持って実現していない。
でも、進歩したというのか、あたしが彼に触れるのをもう厭わなくなった。
まあ、それ位の信用は得た…らしい。
その事を彼の従者に語ったら、物凄く吃驚された。
口数が少ないけど、ポツリポツリと断片的な彼の話を繋げると、彼は後水尾天皇の血縁で、養子として親戚の九条家に育てられたという事だった。
その上生まれながらにして病弱で、不思議な力を持っているという事も。
そう、あたしには想像不可能な世界=霊の世界の住人と対話出来るのだそうだっ。
だから、彼が宙を向いている時は殆どそいつらと会話をしている…らしい。
「先ほど怪しげな客に触られていたと六助が申しておったから案じておったぞ。」
六助って…それは誰…?
もちろん生きてる人間じゃあないのよね?
「ああ、あの酔っ払いのクソオヤジね。あの客だったらもう酔いつぶれたから大丈夫大丈夫。」
「そうか…。」
ズゥイッと、突然あたしの肩を引き寄せる。
な、な、な、なんすか突然!!!
と驚いていると、細い外見からは想像もつかない力であたしを抑えて仰向けにしてしまった。
ぽすっと音がして、頭に何か添えられたと思ったら。
ドアップで九条様の顔が目の前にあった。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!!!」
思わず叫んでしまったあたしの口を塞いで、ちょっと不快気に顔を顰める。
「今日も一日疲れたであろう。俺の膝の上で寝ていいぞ。嫌か?」
嫌かって…。
ひ、ひ膝枕!!!
「嫌じゃないけど…。でも別に眠くないよぉ!!!」
あたしは真っ赤になって九条様を見上げる。
彼は涼しげな顔で、
「そうか、ならば私に話でもしろ。」
と言ってきた。
「話って…う~ん、何が聞きたいの?」
ちょっとキンチョーして焦り気味のあたしの額に、ポンって手が置かれた。
サラッとした低めの体温が逆に心地よい。
「お前の幼少時代の話が聞いてみたい…。」
言いながら、彼の唇が降りてきた。
そう。
彼が接吻をしてきたのも、ついこの間の事だった。
非現実的な世界に生きている公家のお坊ちゃんは、あたしが遊郭がどんな所か説明した時、男女の行為すら知らなかった…。
いや、知らない振りをしてただけなのかもしれないけど…。
「コウノトリが子供を運んでくるのではなかったのか。」
と、至極真面目な顔で問い質して来た位なんだから。
ちなみに接吻という行為すら知らなかったらしくって、彼の連れが酔いつぶれてあたしの連れの遊女にあつ~く接吻をかましている所を目撃して、
「あれは何だ?」
とあたしに聞いてきたのだった。
そこであたしは、男女のいろはを教える事にした。
「男女とは、そういうものなのか。くだらないな。」
あたしのなが~い長い(愛の生殖行為の)説明を聞き終わった九条様は、格別驚いた風でも恥じた風でもなく、さらりとそう一言述べた。
「そういうものなのですっ!!!っていうか九条様にそういう事を教えた人は居なかったんですか??」
あたしはちょこっとだけ呆れて聞いてみた。
だって、ねえ…。
この歳になってそんな事も知らないなんて、絶対おかしいし。
「私は妻帯を許されていない。妻帯したいとも思わない。このような所に来ている事も実家は知らないであろう。」
と、涼しい顔でまたもや言い放った。
え?
妻帯を許されてないって、どういう意味??
まさか僧侶じゃぁないよねえ??
髪の毛フサフサで長いし…。
「何で?」
と聞こうとしたけれど、白くて無表情なその顔が何故だか寂しそうで…。
どういう訳か、あたしの方が切なくなった。
この人は、どこか孤独な影を宿していて…。
独りじゃないんだよと教えてあげたい、と思った。
「………ちゅ。」
あたしは意図的に、彼の青白い頬に小さな接吻をした。
「…っな!!!!//////」
九条様は目を見開きながら後ろに後ずさる。
「ね。接吻も悪くないでしょ?」
と無邪気に笑ったあたしを無視して、彼はそれから半刻ほど口を利いてくれなかった。
「しょっぱいぞ…。」
あたしの唇に軽く触れた九条様は、顔を顰めた。
そういえば今さっき塩水を飲んだばかりだった。
「ごめん、さっき塩水飲んだから。」
「塩水?…何の為に??」
遊女は定期的に塩水を飲む。
それは、遊女達の間で古くから伝わる魔除けでもあり、避妊の手段の一つでもあった。
「うん…ちょっとね。」
言葉を濁すあたしの頭に彼はポンと手を置いて、優しくひと撫でした。
あたしの言葉の意味を悟ったのだろうか。
「そうか…。無理をするな。……お前に何かあると思うと……心もとない。」
静かな彼の声がまるで子守唄みたいで、あたしはふっと目を閉じた。
→ちょっとこれからどうなるのか覗いてみます??
「あっ!!」
七ツ時。
まだ日も昇っていない早朝。
茶屋のものが遊女達を迎えに来た声とどたどたという足音で、あたしは目を覚ました。
一体いつから眠っていたんだろ?
隣を見ると、目を見張るような美人があどけない顔であたしに寄り添いながら寝ていた。
「う~~~ん。」
朝に弱いあたしは、ポリポリと頭を掻きながら昨夜何をしたか思い出そうとする。
「結局あたしら何やったんだっけ?」
全く持って覚えてない…。
あたし、まだ若いのに…ボケちゃったの???
確か、九条様と色々話してて、それからそれから…。
「あ、……そうだった。」
あたしは隣で安心しきって寝ている美人の顔をマジマジと眺めた。
「木蘭さまぁぁぁ~~!!」
聞きなれた禿の声が聞こえた。
ってか、もう時間!!!
あたしは隣でまだすやすやと寝息を立てている九条様を叩き起こした。
「ああ~~~~朝だあぁっ!!!!」
九条様を見送る為外に出たあたしは、大きく伸びをした。
「お前の様子が心配だ。何かあったら私は六助を代理として遣わそう。」
との九条様の勧めを断って(だってお化けに話しかけられたくないも~ん!!)あたしは
「絶対報告がてら文を送るから。」
と硬く約束した。
「京に戻るまでまだある。またすぐにお前を訪ねるから待っておれ。」
強くあたしを掻き抱いた後、悲しそうな顔をして去っていった九条様を見送ったあたしは、禿を従えて揚屋からトボトボ歩いて松田屋に戻った。
また、今日も一日が始まる。
また同じ梅山の朝。
……でも、その前に置屋でもう一眠りしよっと!!!