“顔、すごいよ。とりあえずこれで拭きな”
家に帰ろう、とか言ったくせにあたしの顔を覗くとこのまま帰ったら家にいるお母さんに怪しまれるからと、健人はポケットからキレイにたたまれた紺色のハンカチをあたしに手渡す。
あたしは、象の鼻を模した滑り台に寄りかかって背中を凭れていた。
折り目がきちんとして清潔そうなそれは、宇田川がいつかあたしに手渡したくっちゃくちゃのそれとは正反対だ。
涙を拭いて、あたしは改めて目の前に立つ健人を見つめる。
口端を切らし、米神が赤く腫れている。
黒色のVニットのセーターも、土ぼこりで汚れていている上、髪の毛もボサボサだ。
よく見ると、寝ていないのか目が落ち窪んでるし、心なしやつれてる。
なのに、茶色く染めてる髪が、太陽に透けてキラキラしてる。
“そこ、拭いきれてない。なんで愛理は……はあっ”
あたしからハンカチを奪い取ると、健人は溜息混じえながら頭振りながらあたしの顔をぬぐう。
その手つきが、やけに優しい。
“健人…あんたも、口切れてる”
健人は不機嫌そうに顔をしかめた。
“これくらい、なんともない。愛理、頭、大丈夫?まだ、痛む?なんで家で安静にしてないの”
手の甲で口を拭うと、そのまま手を動かして説教交じりに返答する。
“全然平気。抜糸もあと2週間だってさ”
“知ってる”
あ、やべ。
そういえば、退院の時お医者さんから激しい運動絶対禁止とか言われてたのに、暴れてうぉりゃりながら喧嘩の仲裁入っちゃったし。
ハッとしてたのか、あたしの顔色が微妙に変化してたのか、健人が手を伸ばしてあたしの手に触れる。
無表情ながら、なんとなく眼を細める。
うわあああああ、どーーーーしよ。
前まで以上にドキドキ感倍増なんですけど。
一晩寝かせただけで、カスピ海ヨーグルトもビックリ!のドキドキ倍増繁殖ぶり。
“あああああれっ?なんで健人現れたの?最近家帰ってなかったのに??どっどっどっどーしたのさっ?”
“帰ってたよ。愛理が知らないだけで。今日だって家に帰ったら…”
そこで喋っていたら多分言い淀んでるみたいに、だけど手話の健人はバツが悪そうに眼を伏せる。
“家に帰ったら、母さんが愛理は眼鏡かけた男と外出て行ったっていうから”
だから、追いかけてきたの?
とのあたしの無言の質問に、ぶっきらぼうに
“そうだよ”
と小さく頷く。
“それとも、俺が来ない方が良かった?愛理はあのアイドルとあのままいちゃいちゃしてたかった?あいつの前でした俺とのキスも、満更じゃなさそうだったけど?”
「ま、ま、ま、満更…じゃなくないもん!」
宇田川の前でチッス(KISS)しちゃったのを思い出し、顔が火照るのを感じる。
“へえ、そうなんだ”
その火照りを感じてるのか否か。
いや、絶対感じてるだろーけど、健人が微笑を浮かべながら触れているあたしの手の中にハンカチを押し込む。
“今度は愛理が、拭いて”
言いながら、目を閉じた。
右目の横を赤黒く腫らしているのに、口角が破けているのに、すらっと切れ長の目を縁取っている濃い睫毛の下に影が出来ている。
その上夕陽が、キラキラと健人の茶色い髪を背後から照らしている。
夕方の風が、さらりとその髪を揺らして通り過ぎていく。
キレイ……。
思わず、見入ってしまう。
あたしの極短まつげは、エクステとか付けまつげしない限り影は出来ない。
眉毛だって手入れなしでこの形って、ありえない。
おでこについた土をハンカチで拭ってあげる。
ほんっと、なんで同じ親のDNA引き継いで生まれたハズなのに、こうも違うんだろう。
“もうちょっと、優しく出来ないの?ほんっとに不器用だな、愛理は”
眉間にしわ寄せながら、指と口を動かして健人が抗議する。
“あ、いい事思いついた”
健人が突然伏せていた目を上げた。珍しいほど、破顔する。
ううっ。
いつもながら、激まぶしぃ。
思わず額に手を翳したあたしの手中からハンカチを奪い取ると、笑顔のまま健人は手を動かす。
“愛理俺の傷、舐めて”
「はっ?はあ~~~~?」
どきぃぃぃぃっっっっ、って心臓が口から飛び出そうになった。
「なんで突然そうなるの?」
健人は微笑みながら、あたしの抗議の声を無視して手を口元に持って手話で訴える。
“あ、殴られたキズが痛む…”
さっきは「これくらい、なんともない」っつってたろ!!
とのあたしの心の抗議をお見通しの健人は、
“唾液には殺菌効果が意外なほどあるらしいよ。母さんにも素手では殴られた事ないのに、俺がこんな姿なの一体 だ れ の せいだろうね?”
と言いながら、切れた口端をチラッと舌で舐める。
「なら、自分で舐めときゃ治るでしょ!!た、確かにお母さんは素手じゃなくていつも鞭とかSM道具使ってたし、プロ級の力加減で子供のあたしたちにお仕置きしてたけど……」
あたしは深く息を吸った。
健人は、明らかにあたしを試してる。
あたしの意思を、気持ちを、試してる。
真剣にあたしを見つめる健人の双眸が、あたしの視線とぶつかると微かに翳りを帯びて小さく揺らいだ。
健人……。
「っ!」
健人が息を飲む音が聞こえた。
不安げな瞳に射られたあたしは、気づいたら健人の首の後ろに手を回してた。
きっとあたしの表情は、茹ダコみたいに真っ赤だ。
自分でもその火照りを感じる。
上目で健人を見ると……。
意外な事に、驚いた表情のまま硬直していた。
あたしは意を決して、ちろっ……って健人の切れた口の端を舐め取る。
鉄の、味。
健人の、香り。
ちろっ。
ちろっ。
猫みたいに舐め続けていると、閉じた唇の隙間から小さくはあっ……って健人の吐息が口から漏れる。
それでも舐め続けていると。
あたしの舌に、健人のそれが軽く触れる。
「あ……」
と。
突然肩を掴まれ、その行為が中断された。
再度健人の双眸とぶつかる。
黒く艶めいているそれは、先ほどの翳りが無くなっていた。
その代わり、温かみを含んだ野生的な輝きを放っている。
……ように見えた。
あ い り
まるであたしの名前を呼んでいるみたいに、健人のひんやりとした両手が、確認するようにあたしの頬をしっかりと包み込む。
思わず目を瞑ると、湿り気と温もりが、再度あたしの唇に落ちた。
ああ。
駄目だ。
あたしの理性という言葉を積み重ねた壁が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
健人。
小さくて温かな息吹が口の中に吹き込まれる。
それはいつしかあたしのそれと一体化して…。
あたしやっぱり、健人の事が好きだ。
「んっ…」
ヌルリとした熱が歯間をぬって、あたしのそれに絡められる。
あたしは頭の中で確信していた。
健人が、好き。
大好き。
舌を絡ませながら、健人は小さく息を吐く。
あ い り
もう心の声は聞こえないのに、健人があたしの名前を呼んでいるような気がした。
健人、好き。
湿っぽくて粘ついた甘い音を耳で聞きながら、栓を抜いたら溢れ出しそうな言葉を抑える。
抑えながらも。
何度も何度も角度を変えて執拗に訪れるその柔らかさに、あたしも無我夢中で応えていた。
どれ位時間が経ったのか。
気づくと、橙色だった空が夜を告げる群青色と見事に溶け合ってた。
辺りは薄暗い。
ってちょっと詩人っぽく呟いてみたけど。
健人は突然、身体を離しキスを止めた。
濡れた唇を軽く舌で舐め取ると、手でサインを作る。
“ありがとう、愛理”
健人の表情は、春の到来(?)みたいに、どこか清清しい。
さっきから、ずっと機嫌が良さそう。
「なな、何が?」
あたしが明らかに動揺した、(っつっても健人には聞こえないだろーけど)うわずった声で聞き返すと。
“とりあえず、行こう”
と指で合図すると立ち上がって、あたしの手を引いて歩き出す。
「どどど、どこへ!?」
とビビりながら、半ばキスの余韻に浸ってるあたしをよそに、半ば引きずりながら、無言で健人は駅に向かって歩き出した。
駅付近でタクシーを拾うと、健人は運転手に紙切れを見せた。
健人の泊っている六本木駅の東京タワーが見えるホテルの部屋には、コンピューターのモニター6台やラップトップ、ハードドライブ数台が鏡台やらテーブルに所狭しと置かれ、それらの合間を幾重もの配線が駆け巡っていた。
「ココは……諜報部員の隠れ部屋?トム・●ルーズが天井からぶら下ってないかな~~?」明らかにスパイ大作戦的、電磁波飛びまくりの脳に影響及ぼしそう~な環境。
緑化運動しようか、うん。
なんてキョロキョロしてるあたしをよそに、健人はあたしに背を向けて土埃のついたセーターとその下のTシャツを脱ぎすて小ざっぱりした新しいTシャツに着替える。
電磁波の総本山みたいな秘密基地みたいな部屋の反対の壁際は、ツインサイズのベッドが置かれていて、ルーム清掃が入ったのか余分な物は置いておらず、きちんとベッドメイクされ小ざっぱりしている。
あたしの部屋の廊下を挟んだ反対側の健人の部屋も、こんな感じに色々と電気機器系統が置かれてる場所と、無機質で生活感のない場所とに分かれてる。
あたしのキョロキョロ視線に気づいたのか、聞こえないとタカをくくって呟いた阿呆な独り言洩らしたのを察知したのか、健人がコンピューターを指差しながら、
“これが、トレーディング用のコンピューター、これが今作ってるゲームで使ってるやつで、これが一番の主要な脳みそ。あ、愛理ぶっ壊すから触らないで”
と注意しながら説明する。
そりゃあ、前にお茶こぼして健人のコンピューター大破させたことあったけどさっ。
あん時も、健人に「お仕置き」と題されて、色々と……。
かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~~~~~~~~~/////
ああ、あたし自爆してるし。
“さっ触りませんよっ。こんな感電死しそうなもんっっ。あたしの理想は…”
“老衰で、大往生、ね。5万回位聞いた”
ゴホン、とあたしはそこで気を取り直して咳払いする。
“判れば宜しい。んで、何のゲーム作ってるの?”
前に悦子ちゃんがそんなような話してたのを思い出して、聞いてみる。
悦子ちゃんとの関係も……どうなってんだろ。
健人はちょっと驚いた顔して、あたしを顧みた。
“愛理、どうしたの突然?前まで俺が何してようと全然興味なかったのに?”
え?そうだったっけ?
そういえば、初めて…かも。
今までは健人がどんなにヲタッキー(ヲタク系)な事してようと、どーでもよかった。
なのに今頃になって、知りたいとか思っちゃってる。
“今、俺の会社で作ってるのは……”
「俺の会社!?!?!?!?!?!?!」
ビビッて大声で聞き返すあたし。
“ああ、今オンラインゲーム作る会社やってる。社員は俺を含めた数名だけだけど。新作のRPGのプログラムやディベロッピングが主。言ってなかったっけ?”
“言ってない言ってない”
と、指されたパソコン数台見つめながら、呪文?のような言葉の羅列を聞きながら、あたしはブンブンと首を振る。
“そんなに頭振ると、傷に触って悪い頭がもっと悪くなるよ”
“一言余計だから。って、あのさ、あんた、このあいだ宇田川にサイバー攻撃かけたでしょ?”
あたしが宇田川の名前出すと、健人はメールチェックしていたのかさり気なくマウスを動かしてた手を止める。
“サイバー攻撃?ああ…大したことしてないよ。今のところは。なんで?あのアイドルが何か言ってた?”
「今のところ!やっぱりしたの!?」
思わずあたしは大声を出す。
“ウイルスとスパムメールを15種類くらい発信源世界各地にすり替えて送ったり、あいつの事務所のコンピューターにハッキングしてあいつの個人情報情報もらっただけ”
“ウイルス!?ハッキング!?情報もらっただけ??”
“ちょこっとだけ個人情報流させてもらったけど。でもこれは愛理を巻き込んで傷つけた、罰。まだまだ手は打ってあるけど、全ては愛理次第だよ”
“あたし…次第?”
“愛理があいつと会い続けるなら、遠隔操作で色々する。あいつの生年月日のみならず家庭環境、生活環境、出身校、癖、趣味、行きつけの店、あいつに関する大まかな事実は、掴んでる”
健人が天使のような笑顔になった。
“だから、愛理次第”
でも冗談じゃないのは、眼をみれば一目瞭然だ。
そのお人形みたいな表情に、背筋が凍りつく。
あたしは何度も、本気で怒ってる時の健人のその笑顔を目にしたから。
「その必要はないよ!だって……」
だって、あたしが好きなのは健人、だし。
のどまで出かかった言葉を、かろうじて飲み込む。
“わかってるよ”
健人は小さく息を吸った。
“理解してるよ”
理解?
理解って、まさかまさかまさかあたしが宇田川に言った事、聞こえてた…とか?
ど、どうしよ……。
大声で健人への気持ち宇田川に告げちゃったけど。
まさかまさかまさかまさか………。
ちょっとだけ、ドキドキと胸が打ち始める。
“俺らの事、気味悪がってたね”
ほっ……。
って思わず安堵の溜息が出ちゃった。胸をなでおろす。
健人には、聞かれてない。
よかった。
でも、確かに。
怒りまくりの宇田川に、キモチワリー、って言われた。
今さっきの出来事を思い出して黙り込んで俯いたあたしの顎に、手が置かれる。
“愛理、俺がここ最近ずっと口にしてる事、覚えてるよね?”
「ここ最近?」
“愛理の事、姉以上に見てるって言った事”
あーもう。
せっかくつい一秒前に収まった心臓が、またバクバク音を立て始めちゃったし。
“俺は、別に誰に何を言われようと気にならない。もう今更、モラルとか常識とか、関係ないと思ってる。だからあいつが何を言おうと、俺は何も感じないよ。他の人間が言うことなんて、いちいち気にしない”
それは……。
黙りこくってるあたしに構わず、健人は続ける。
“だから愛理がさっきあのアイドル振った時、俺を選んだ時、嬉しかった”
邪気のない、清流のような笑顔があたしの目の前に広がる。
「選ぶも何も、あんたが勝手に邪魔して突然……」
言い終わる前に、健人の手で遮られる。
“愛理、さっきの続き…していい?”
「さささ、さっきって、さっきの…?」
きききききっすですかい?
“俺、もっと愛理に……”
健人は途中で動かしていた手を下ろす。
けど、その続きは手話じゃなくても、頭の悪いあたしでも理解できた。
触れたい。
肩を掴まれる。
あたし、弟を、こんなに意識してる。
ただのキスなのに、宇田川とは何にも感じなかったのに。
健人の見なれた、ムカつくほどキレイな顔が、近づいてくる。
「健……人…?」
自分の気持ちに気づいた今、もう前に戻れないように気がした。
目を瞑ると、一つ、キスが降りてきた。
今日3度目の、甘い甘いキス。
“愛理は今…何考えてるの?”
静かに唇を離すと。
健人はあたしの手を取って自分の胸に押し当て、そう尋ねた。
あ。
ドキドキ言ってる。
薄いTシャツ越しに、早く鳴り響いてる健人の鼓動を感じる。
“俺の事?それとも、あいつ?”
ちょっと強引に、引き寄せられる。
この先起きうるいつもの情事を想定したあたしは、ちょっと怯えて反射的に身体を引いた。
“愛理、さっきもあいつに触られてた時、そういう表情(カオ)してた”
「えっ?」
言いながらあたしの顎をクイってあげて視線を合わせる。
健人は、あえて色を隠した暗い眼をしている。
“俺以外の人間に、そういう表情見せないで”
その顎の手を動かして器用に手話しながら、無声で口動かしながら、あたしの首筋をゆっくりたどっていく。
“俺以外の人間に、触れさせた、罰だよ”
肩上の髪の毛をはらりと払うと、健人が首筋に顔を埋めて、歯を立てる。
つーって鎖骨を下りた確かな温もりが、あたしの柔らかい曲線を包み込んだ。
もう、止められないよ。
神様……。
と、その時。
『俺の名前じゃなくて、なんで神様なの?』
あたしの頭に、聞きなれた…けれど懐かしい声が突然響いた。
え?
思わず、顔を上げる。
『俺の事、好きなんだね、愛理』
え?え?え?
健人があたしの首筋をぺロリ、と舐める。
「ひゃっ!って、ええええええええ!?ここここ声が…健人の声が…って、ええええええええええええええええええええ????????????」
大パニック&大混乱で言葉おかしくなってるあたしの耳にかかった髪の毛を、健人が払った。
キスの雨を降らしながら、言葉を紡ぐ。
『さっきからもうずっと、愛理の言葉、垂れ流し状態。まる聞こえ』
健人の嬉しそうな声が、あたしの脳天を直撃した。