辺りは黴のような、あるいは獣が腐敗したような臭いが漂っており、臓腑から黄水が込み上げてくる。
だが、進まねばならないのだ。
不思議な程、己の意思がそう告げていた。
進まねばならないのだ。
前進こそ、四雲にとっての懺悔であり、正義なのだ。
四雲は探り足で汚泥を踏みしめながら奥へ奥へと突き進む。
奥からは、耳覚えのある無数の声が反響していた。
耳を澄ますと、それは怨言のような呪を唱えているような無数の呟き。
そしてその声は、四雲が歩を進める毎に大きくなる。
何度も込み上げる嘔吐と戦いながら、疲労でこれ以上ない程張っている筋肉に鞭打って前に突き進む四雲は、しかし何か重たい引力を後方からも感じていた。
ある程度の所まで歩を進めると、彼の野生の勘はそれ以上の前進を拒否した。
理性ではなく、感覚が断固として彼の意思を撥ね付ける。
が。
ふと、後方から女の声が聞こえたように思えたので振り返った。
「誰だ......」
言葉を発すると、更に胃液が込み上げる。
頼りなく揺れ動く足を踏み締め、四雲は構えた。
その刹那。
閃光が彼を包み込み、襟元を物凄い力で掴まれ彼が苦心して歩いてきた道を引きずり戻していく。
人力ならざるその引力は、やがて黄金の輝きの中へと四雲を導いた。
.
「お目覚めのようですわ、半蔵様」
日の上昇と共に晴れる朝霧のように、充血した四雲の目を覆っていた靄が消え始める。
と、同時に彼の耳には若い女の声と、囁く様な老人の濁り声が聞こえた。
薄目を更に開けようとして、瞼の力が入らない事に気付く。
それでも何度か瞬きを繰り返しながら開き続ける。
やっと視界の隅に、幼さの残る上品な身なりの女の姿が入った。
「あなた、長い事眠っていたわ」
女が四雲の額に、冷たい水で絞った手ぬぐいを置こうと身を屈める。
が、触れられそうになる直前、反射的に女の手首を掴んでいた。
同時に、夢の中で感じていた腑の中の不快感が込み上げる。
四雲の口からううっ、と唸り声が漏れた。
「無理をするで無いぞ」
たしなめるように、先ほど耳に入った濁声が女の後ろから聞こえる。
「お手を御放し下さい。無礼者」
女の細い手首が僅かに震えているのに気付き、四雲はその手を開放した。
白い皮膚にはもう既に指形の青い後がついている。
「毒が完全に抜けるまで、あと少しのようじゃな」
毒。
毒、という言葉を声にならない声で呟く。
口が僅かに動いたのを察してか、姿の見えない濁り声の主は続けた。
「そうじゃ。お前さんは毒を受けた。それも、猛毒じゃよ。あと一刻でも遅ければ命は助かっておらんかった」
毒。
毒、という言葉を朦朧とした意識の中で何度も反復する。
覚えている。
大阪城だ。
あの燃え盛る大阪城の戦場で、指示されたように秀頼の首を討ち取った後の事。
まるで敵味方区別がつかない兵士とその死体で溢れかえっていた城を脱出する最中、千姫と遭遇し、また彼女を保護する使命を請け負っていたらしき服部半蔵と対峙し、戦い、そして彼奴の毒の刃を受けたのだ。
半蔵?!
女の口から先ほど零れ出た名。
そして、己の目の前に跪いている女にも見覚えがあった。
「千姫殿」
嗄れ声ながらも、口をついて出た言葉。
ここは、伊賀の陣中か?
「別に、わしらはオマエさんをとって食おうって気はないんじゃよ。その殺気を静めんか」
突如身を硬くした四雲の視界に、皺だらけの老人が姿を現した。
もし体の自由が利くならば、とっくに飛び退くなりこの「半蔵」と呼ばれている小柄な老人に攻撃なりを加えていたはずだった。
悔しい事に、腕以外の四肢は動かそうとしても痺れるばかりで言う事を聞かない。腕ですら、先ほどの女を掴んでからちくりちくりと刺すような感覚で脈が速さを増していた。
「彼の体から放たれていた鬼気が弱くなったようです」
千姫の言葉に「そうじゃな」と相槌を打ちながら、老人は脇に用意してあった懐紙に包まれている萌葱色の粉末を白湯に混ぜる。
その萌葱色の粉末の臭いが大黄と茜の樹皮を煎じた胃腸薬である事を確信すると、四雲は無表情にそれを飲み下した。
「お主は...誰...だ?」
思うように出てこない声に苛々しながらも、四雲は「半蔵」と呼ばれている老人に尋ねた。
「わしか?わしは巷では『政成』と呼ばれておる。昔は『鬼の半蔵』などと呼ばれておったわ」
「半蔵......石見の守半蔵......」
忍を生業としている者で、この名を聞いた事が無い者は居ない筈だ。
無宿者の集まりのような連中を束ねる八雲率いる甲賀衆とは異なり、知名度も人徳も有る石見守率いる伊賀流の忍は団結力の強い組織的な族だ。
そして、恐らく大阪城で四雲と戦った服部半蔵政就の父親であろう。
そんな男が何故四雲の命を救ったのか?
「まあそのうち詳しい事は教えてやるからに、今は体休めて精力つける事だけ考えておった方がええよ」
四雲に飲ませた薬の懐紙やら湯のみやらをそそくさと片付けた半蔵は、よいしょ、と腰を上げる。
千姫も退室する半蔵の後に続いた。
小さな部屋が寂然とした空気に包まれた。