家の離れの大きな楓の木の下にいた。
「えいっ、やっ、とおっっ!」
男勝りだったあたしは、木の枝で巨木相手に一人チャンバラごっこをしたり、地面を埋め尽くしたカラカラに乾いた落ち葉の上で足を踏み鳴らしたりして遊んでいた。
家宝の大事な壺を割ってしまったあたしは、父上からこってり絞られて泣きながら家を飛び出した。
「蘭々。」
何処からか、優しい兄上の声が聞こえた。
お蘭という名前のあたしをそうやって呼ぶのは彼だけで。
「兄上!」
顔を上げると、まだ前髪がある元服前の華奢な少年が優しい笑顔を浮かべて立っていた。
あたしは兄上の優しい顔を見つけて無邪気に駆け寄る。
「父上や皆が心配しているよ。形あるものは壊れるが定めなんだ。父上だってそれは分かっている。もう誰も蘭々の事を怒ってはいないのだから、そろそろ強情になるのはやめて素直に中に入ろう。」
小さなあたしの小さな手を取ると、
「蘭々は本当に強情だなぁ。こんなんじゃお嫁に行けないよ。」
と苦笑した。
「お蘭はお嫁に行かないよ。お父様みたいな立派なぶしになるんだから!」
と無邪気に反抗するあたしを見て、
「あははは。それは楽しみだ。きっと僕より強い武士になるんだろうね。」
クスクス笑い声を上げると、兄上は歩いてきた楓道をあたしの手を引いて逆戻りした。
蘭々。
あたしは深い溜息をついた。
「はあ~~~っ。おかしいでしょ?こーんな夢を見るなんて。もうずーっと前に葬った筈の過去なのにさっ。」
囲碁をしながら、あたしは目の前の麗人に昨夜見た夢の事を話した。
この人は。
あたしが東の豊臣方の武将の娘だったという過去を知る唯一のお客だった。
いや、お客というよりも…。
ちらっとあたしは囲碁盤から顔を上げてその麗人を盗み見た。
長い黒髪を結わずにタラリと流して、別に冠婚葬祭があるわけでもないのに年中黒地の着物を着ている。
すれ違えば老若男女問わず誰もが振り向くだろう翳があるものすごい美貌の持ち主だ。
この人は、いわゆるあたしと同業者で。
梅山の奥の方に一本立っている柳の木のそばの一角で、美少年ばかりを置いた男娼宿『虹乃宿』を営んでいる。
お客は主に女性を抱くのを禁じられている僧侶とか、男色の武士とか、あたしら遊女とか、お忍びの武家の妻や未亡人とか色々らしい。
自分の事は一切話さないけど、あたしのつたない推測では自身も昔、この美貌に目をつけられて男娼として売られてこの梅山に辿り着いたみたい。
「それは…木蘭さんがあの頃に戻りたいと思っているからなのじゃないかい?」
言いながらビシッと先手を決める。
「あっ。」
やられた!!!
と思いながら、あたしは答えた。
「別に、もう戻れないものはしょうがないけど…。でも、あたしは父上の後を追って自害なさった兄上が未だに許せない。…兄上まで死ぬ事無かったのよ。浪人になり何なりになってでも、生き延びていて欲しかった。」
東西合戦の後、家は崩壊した。
父上は幕府より切腹を言い付かって自害なされ、母上は心の病に冒され父上の後を追うように逝かれ、兄上は姿を消した。
親戚の話では父の後を追って裏山の崖から身を投げたと言っていた。
そんなあたしも、徳川家に財を押収された親戚によって身売りされたんだけど。
まあ、もう過去の話。
その人、竜之介さんは、苦笑しながら腕を組んであたしの一手を待っている。
「案外君の大切な人達は近くにいて、木蘭さんを見守っているのかもしれないね。その兄上とやらも、きっと君の事が心配だったに違いない。」
「案外近くでって…それはお化けとしてって事?あたしのお客様にそういうのが見える方がいらっしゃるけど…考えただけでぞ~っとする!!!」
「ふふふ…そうかい?」
彼はあたしがなかなか反撃してこないので、腕を組んでニッコリ微笑んだ。
「さて、今日も僕の勝ちみたいだね。」
「うっ……。」
あたしは言葉を詰まらせる…。
だって、だって、竜さんめっちゃ強いんだもーん!!!
「それでは…君と二人だけの逢瀬も久々だし、今夜はここに泊めさせてもらおうかな。」
「え…。」
絶句。
それは…他の言い方に代えると、夜伽の相手をしろって事???
「っつーか竜さんっ!!あなたの宿は歩いてすぐのトコじゃない!!!こんなトコで散財しないでしっかり自分んトコの宿の管理したら??」
あたしはいつものお節介で、そんな事を口走ってしまう。
だって、ねえ…。
彼と褥を共にするといつも…。
「宿の運営で忙しくて、最近休みがとれなかったんでね。おかげさまで繁盛しているし、僕が居なくても宿の子達にはちゃんと躾をしているから、今夜一晩くらい大丈夫でしょう。」
宿の子達って…。
あたしは、彼の宿で働く少年達を思い出した。
どの子も揃って少女かと見まごう美しさで目を引く美少年達。
その上愛想も良い、いい子ばかりなのでこの梅山でも禿や姉様方に気に入られている。
きっと竜さんも昔はあんなだったに違いない。
「さて、と。」
静かに碁盤を片付けた竜さんは。
そうっと自分の帯びに手を添えた。
→これからの二人を読んでみます???
「良い子だね。」
いつの間にか竜さんは片づけを済ませていた。
気づいたらあたしの体も綺麗に拭かれていて。
あたしは、彼にされるがままになっていた。
あたしの裸の体の上を往復する竜さんの絶妙な手つきとお湯に浸された温かい手拭のせいで、眠気があたしを襲って次第にうとうとし始めた。
こんなに気の許せる人は、他に誰もいないなあ…。
などと思いながらあたしは深い眠りに落ちた。
夢は昨夜と同じで。
あたしは再び楓の木の下に居た。
また兄上があたしを探しに来てくれて。
また同じ会話が繰り返される。
夢の中の兄上の顔は、優しいけれどぼんやりとぼやけていて。
あたしは、記憶の中の兄上の顔を思い出そうとした。
見えない。
見えない。
わからない。
兄上。もっとお蘭に顔を良く見せて。
のっぺらぼうのような顔の口元がゆっくり動いた。
懐かしい声で。
蘭々…
蘭々…
蘭々…
幻聴?
あたしは布団を跳ね除けて、バッと身を起こした。
「どうしたんだい?悪い夢でもみたのかな?」
隣には、竜さんが肩肘付いてあたしを愛しげに眺めていた。
「あ…。竜さん、ごめんなさい…。」
目をこすりながら、あたしは一つ大きな欠伸をした。
「蘭々。」
えっ???
心の臓が口から飛び出るかと思った。
竜さんの綺麗な唇から、夢の中で何度も呼ばれた懐かしい名前が零れ出たからだ。
あたしは、サッと顔を強張らせて彼を見た。
「……と、呼ばれていたんだね。寝ている君は何度もその名前を口にしていたよ。」
「あ……。」
夢…。
竜さんは、あたしの頬をそっと撫でた。
気づかない間に、泣いていた。
「大事な人に呼ばれていたんだね。」
竜さんの声はあくまで優しくて。
あたしは目を閉じたまま、頬の雫を拭う竜さんの甘い指の感触を味わっていた。
「もう、君の記憶の中のお兄さんはいないけれど…。僕が新しいお兄さんになってあげよう。君が必要な限り傍にいてあげるから、だからもう泣かないで…。」
そう言ってくれた竜さんの胸の中で。
あたしは子供のように泣き続けた。