シャワーを浴びていたのか、髪の毛も体も濡れている。
「そんな所に座り込んで何をしている」
さっきの衝撃から立ち直れないでいる俺を一瞥して、そのまま寝室に向かう。
「俺は、これから用が有る。お前は適当に好きな服をここから取って帰れ」
鷹男は俺の前で全裸になり、手早く服を身に着けた。
俺は鷹男の裸の広い背中を眺める。
元ハンマー投げの選手だけあって、背筋も並みのサイズではない。
鷹男の脈々と波打つ筋肉が、羨ましい。
酔いそうな程、男の色香を放っている。
くそっ。
なんでまだドキドキ言ってんだっ。
『男』との、『鷹男』とのキスだってのに。
未だにショックから立ち直れねえ。
俺は悔しくて血が滲むほど唇を噛み締める。
鷹男に気づかれないよう、2度ほど深呼吸した。
「ああ、森尾か。ロビーに居るのか?分かった。今行く」
再び濃紺のスーツに着替えた鷹男は、コーヒーテーブルの上の書類の山の上に札束を何枚か置く。
「これでタクシーを拾って帰れ」
無言の俺をチラリと視線の端でとらえ、鷹男は部屋を出て行こうとする。
一瞬俺を映したその眼は、冷たく無表情だった。
「来週の、この日に」
低い声で言い残して、鷹男は出て行った。
肩の痛みは泳いでいる最中感じなかった。
やっぱり、自分の一番のストレス解消は、水泳だと思う。
水泳をしている時、ふと自分の体が宙に浮いて、泳いでいる自分をそのまま見下ろしているような錯覚に陥る。
俺を傍観者として見つめる、もう一人の俺。
まるで幽体離脱か何かをしているような、ぼんやりと曖昧で、まるで幻覚を見ているような感覚。
泳いでいる時の苦しさや辛さを一切感じない。
山田にその事を話してみたら、
「そんなの俺しょっちゅうだよう。特に集中してる時ぃ」
と言っていた。
無我夢中で泳いでいた俺は、泳ぎながらそんな錯覚に陥っていた。
一通りのルーティーンを終えると、
俺はゴーグルとキャップを外して水から這い上がる。
いつもはプールの主みたいな、うるさい山田の姿が見えない。
「ああ、まだ合宿だっけか」
そろそろ戻って来るだろうな。
山田には、色々と話したい事がある。
天然馬鹿だけど、俺の知ってる誰よりも物事の善し悪しが分かってて、誰よりもクリアなビジョンで明確な判断が下せる不思議な男。
その上、陰の努力家だからプールに朝は一番早くに来て、夜は一番最後に帰るのを俺は知ってる。
去年の春は10年以上もの片想いを実らせて、キレイな年上の彼女と今も幸せそうだ。
山田の中ではもう明るい将来家族計画が進んでいるらしいし。
ミーナさんだったら、あの猛獣を上手く扱えるんだろうとは思うけど。
それにしても、あいつが居ないとこのプールも学校も静まり返って不気味な程だ。
俺はタオルを掴んで頭を拭いた。
手を上げた瞬間、コキっと肩が変な音を立てる。
そして、鈍い痛みがジワジワと広がっていく。
やっぱ、使いもんになんねえな......。
俺は溜息をついて、プールサイドのプラスチック製の椅子に腰掛けた。
後で氷か何かで冷やしておこう。
タオルで顔を拭っていると、ふと指が自分の唇に触れた。
.........。
途端にフラッシュバックであの時の事が鮮明に蘇る。
あの感触、頭から離れねえっ。
俺はタオルで汚物を拭き取るかのごとく、ゴシゴシと口を拭い、そして頭を抱え込んだ。
なんであのおっさん顔が、あの感触が離れねえんだっ。
この6ヶ月間、ほぼ毎週鷹男に抱かれ、奴の癖や性癖もだいたい掴めてきた。
女......いや、人間全般に服従を求めるドS野郎。
確かに、毎回バトルのような攻防戦(と、言うより一方的な服従)をベッドの上で繰り返し、体力的には消耗するが、別に前ほどの嫌悪は無くなった。
いや、鷹男との......『男』とのセックスに慣れてしまったのか。
体の事は全然気にならないのに、なのに何故かここ数日間、俺は悶々と奴とのキス......奴の口が当たった時の事を考えていた。
「あああああああああああ~~~~~~~~~!!!!」
獣の咆哮のように俺の絶叫がプールにこだまする。
忘れてえ。
人生最大の汚点。
俺がずっと守っていた聖域を、あの傲慢ヤロウに侵された。
俺の最後の砦を、いとも簡単に破ってきやがった。
「あのう......佐々木さん?」
ふと、頭の上から女の声が降って来る。
「あ、はい?」
俺は瞬時に顔を引き締め、その声の主の方へ向き直った。
飛び込み選手の、竹脇さん。
結構俺の好みだった。
........。
だった?
だった、て過去形?
んなはずねえよ!
好みだ。の間違い。
俺は首を振って意図的に魅惑の笑みを浮かべる。
「竹脇さん、どうしたの?俺に何か用でも?」
言いながら俺は椅子から立ち上がり、彼女の濡れた前髪を故意に額から払う。
一瞬顔を赤らめると竹脇さんは、
「お外でお友達が待っていらっしゃるみたいですよ」
とガラス張りになっているプールの向こうを指差した。
俺と目が合うと、口にだけ小さく笑みを浮かべて、俺を待っている男は手を振った。
「紅!」
俺は慌ててロッカー室に戻り着替えて紅の待っている通路まで駆けていく。
「何やってんだ、ここ生徒じゃなきゃ入れねえはずなのに!」
「俺まだ大学生に見えるみたい。受付素通りしても何も言われなかったよ」
俺は頭からつま先まで紅を見る。
確かに、上下スウェット姿の紅は、怪我をしたスポーツ青年って見た目だ。
顔に視線が移ると、紅はニコリと微笑んだ。
少し、物悲しげに。
「翠、殴っていい?」
「へっ?」
言うなり紅は持っていた松葉杖を高く振り上げた。
俺は咄嗟に目を瞑る。
ばんっ。
と音がした。
片目だけ開けて見ると、紅がさっきと同じ悲しい微笑を顔にはりつかせたまま、振り上げた松葉杖を思いっきり床に放り投げていた。
「な、なんだよ突然!」
「翠ゴメン、拾ってくれる?」
俺は紅の杖を拾い上げ彼に突きつけながら声を上げる。
「一体全体何だってんだ?」
いや。
何となくだけど......理由は想像できた。
真面目な顔つきで、紅は顎で合図する。
「ちょっとドライブ付き合ってよ」
そう言うなり、俺から杖を奪って踵を返し、さっさと歩き始めた。