確かに。
千姫はただ頭の弱い虚言癖のある姫か。
或いは、神の使いか。
夜叉丸......。
と、四雲は思いを馳せる。
それは昔、四雲がまだ違う名で呼ばれていた頃。
甲賀で自分が『飼育』されていた時代。
子ども達の長的存在だった餓鬼の名だった。
あまり他人と交わろうとしない俺が、唯一心を開いていた、真面目で正義感の強い小僧。
白い狼のような犬、とは夜叉と俺が見つけて飼育した子犬の事である。
いつも土ぼこりに塗れ薄汚れたあいつは、十五になったその年に、血を吐く死の病にかかり、あっけなく逝ってしまった。
忍として初の仕事を受ける事無く。
「ふっ......」
馬鹿馬鹿しい。
千姫の気配をまだ戸の向こうに感じながら、四雲は今、この状況を冷静に判断しようと努めた。
俺は今、伊賀の服部家の庵に居る。
服部半蔵に看護されており、そして奴は明らかに四雲が何者か知っている。
甲賀と伊賀はとても近い。
忍には、お互いが隠密の仕事でかちあわせ敵対する事があったとしても、たとえ同じ里の顔見知りの忍と対峙する事があっても、知らぬ振りを通し命に代えても使命を全うするべし、との暗黙の了解が有る。
半蔵のように名の知れた者とて、上からの命でも決して口を割らない筈だ。
大阪城にて、豊臣秀頼の首を入れた壷を仲間の夕雲に手渡したまでは覚えている。
そこで毒が全身にまわり、体が動かなくなった。
黒い闇に覆われる意識の中、何故か鴉になった自分が他の烏と共に、魂の抜けた己の赤い血に塗れた体の肉を啄ばみ、水気の多い眼球や柔らかい唇を食している映像を見た。
別に、死に対する恐怖は無かった。
だのに、こうして生かされている。
生かされているのだ。
「はっ」
呆れて物が言えない。
男としての能力に欠け、己の種を世に残す事も叶わぬ、この世でもっとも生きる価値の無い屑が、生き恥を晒しながらも影の世界で生きなくてはならないのだ。
これ以上滑稽な事は無い。
狂ったような高笑いが止まらなかった。
これも誰かの命か?
雲龍の?八雲の?
ありえない。
四雲は自分の立場を......八雲の駒としての己の立場を痛いほど弁えている。
そのように訓練され、洗脳されてきたのだ。
死の雲。
四雲。
雲の一人としてつけられた今の己の名。
雲は天照大神(あまてらすおおのかみ)を覆う不吉なものとし、古代の人間は忌み嫌っていた。
穢れを生業とする雲人(くもびと)と呼ばれる者達に、畏怖の念を抱いていた。
その雲人が群れを成して作った里が今の忍の祖だという。
四雲は目を閉じる。
瞼の裏の闇に、影を反映したように光の欠片が煌めく。
死より恐ろしいもの。
それは、今生を全うするという人間の義務やもしれぬと四雲は思った。