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沼地の湿風    07.14.2007

沼地の湿風 
 




 金、紫、緑のビーズが飛び交う喧噪の中。
色取り取りのデザインの御輿と、美しく着飾った人々が目の前を踊りながら通り過ぎていく様を見つめながら。
マルディ・グラ。
人込みの中で一際目立つ、美しい二人。
手には紙コップ。
その中の泡だった琥珀色の液体。
深みのある青い両目を細め、今風の、無造作に立ち上げられた黄褐色の髪の毛先で遊びながら、美しい男は隣の褐色の肌をした美少女に微笑みかける。
「どうだい、随分と変わっただろう?ハンナ、君が居た頃にはこんな祭りがあったのかい?」
ハンナと呼ばれた女は声の主の方に振り向きもせず、ただ、小さく首を振りながら口元を少しだけ引き上げて、引きつった笑みを浮かべる。
それでも。
整った顔立ちは神秘的な美しさを秘めていた。
「また…戻ってきたなんてね。」
「何年ぶりだろうね。」
「…さあ?」
「何百年ぶり、と言った方がいいのかな?」
男はハハハと笑いながら、こちらに向かってくるビーズを力いっぱい投げ返した。
「君は目立つみたいだね。君に向かって御輿の上の男たちがもう首にかけられない程のビーズを投げてくるよ。そろそろ、ここを離れてどこかへ行こうか?」
気遣わしげに彼女の肩をそっと抱くと、彼は彼女を守るように人垣を掻き分けて喧噪から離れた。
彼女はパレードの間中、ずっと考えていた。
この、全ての始まりを。
 
 
 

 ハンナは走っていた。
泥まみれになり、時には食料や馬を盗み、人の目を欺き、餓死しそうになりながらも、ルイジアナの、この沼地が広がる森を何日も素足で駆け抜けた。
胸の中には、たった一つの望み。
生き延びて北へ行く事。
北へ行けば、人間として、人間らしい自由が手に入ると信じて。
昼間はビクビクしながら身を隠し。
夜は足音を立てないように気をつけながら暗い闇の中を移動して。
隠れ馬車に乗り込み。
時には非情な輩に騙され、望まない男の相手をしながらも。
彼女は北を目指した。
クワドルーン。
大プランテーションの主である白い父親と、混血の黒い母の血を引いて、彼女は幼い頃から神秘的な美しさを漂わせていた美女だった。
その血のお陰で、読み書きも習う事が出来た。
過酷な労働に耐えながらも、教養を身に着け利口な少女に育った。
それでも。
ここにいれば一生身分は同じ。
差別を受け、虐待に耐え、辛い想いを抱えながら生きて行かなければならない。
親しかった友人、仲間との別れ。
貧しいけれど優しかった黒い祖父母を置いていくのは辛かった。
一人で逃げ出すのは、体の震えが止まらないほど恐ろしかった。
けれど。
彼女は自由が欲しかった。
 
 
 南を駆け抜け。
東のアンダーグラウンドを通り。
ハンナはどうにか生き延びた。
東には、心優しい人たちが大勢居て。
彼女のような人間を、屋根裏に何日も匿ってくれた。
 
 
 でもある日。
とうとう彼女は捕まった。
南からの逃亡者。
その罪は重い。
体中が腫上がるまで、白い手で拷問を受け。
体中の感覚が無くなるまで、屈辱を受け。
浅黒い肌に幾つもの鞭の痕が残り。
苦しみに耐えながら。
それでも、彼女は生き延びたかった。


 死にかけていた彼女を、この男が助けてくれた。
縄で縛られ、街で晒し者となっていた彼女の口に。
そっと一切れの干し肉を押し込んだ。
「これを食べて元気になったら、ドミニク・ケンドリックを探しにおいで。シカゴで有名な酒造店を営んでいるから。」
上品な身なりと、洒落た帽子の下から覗く青い瞳が印象的で。
何事も無かったかの如く、その男はステッキを振り回しながら待ち合わせた馬車に乗り込み、さっさとその場から姿を消した。
もう何日も食べ物を口にしていなかった彼女は、その固くて不味い干し肉をそのまま飲み下した。
 
 
 
 不思議な事に気付いた。
逃亡者への罰は、死。
昨夜人前で喉を裂かれて死んだはずなのに。
彼女は街のはずれに重ねられた躯の中で、目を覚ました。
彼女の体は。
つけられた体中の傷痕も。
裂かれた喉も。
そればかりか、幼い頃つけた膝の傷痕も。
全てすっかり消えていた。
気力を振り絞り。
蝿と鼠が漂う腐臭の山を掻き分け。
そこから再度逃げ出した。

 
 
 

 フリーウェイを走らせながら隣の男、ドミニクは元気に鼻歌を吹きながらラジオのチャンネルを弄っている。
彼が探しているのは今話題のポップを流すロックステーション。
ハンナは彼がチャンネルを変える度に耳に響く雑音に整った眉を顰めていた。
「あの時、俺が助けなかったらハンナは死んでいたんだ。」
突然。
ポツリとドミニクが呟いた。
「そうね。」
ハンナは小さく頷く。
この男は。
彼女が彼を探し出して以来、彼女を放さず。
ずっと行動を共にしていた。
一箇所に留まると、老いがない彼らを周囲の者は奇異の目で見てくる。
だから。
何度も何度も場所を移動し。
何度も何度も身分を変えながら。
彼女たちは生き続けた。


 白い男と黒い女。
美しい二人。
ベッドの上で。
彼は良く口にする。
「俺はね。ずーっと運命を共に出来そうな人間を探していたんだ。生に対して執着心がある、美しい女を。もう、この六百年近い時の中を。」
何故、彼女なのか。
彼が、人魚の肉を与えた時。
彼女の人生は終わった。
その辛い人生から解き放つ事が許されて。
けれども。
彼女が、人魚の肉を食べた時。
彼女の人生は始まった。
それは、終わりを知らない新しいゲームで。
そして、それは悲しみの始まりでもあった。
「あの時の君の瞳が…無視出来なかった。不思議だね、何百何千と罪人を目にしてきたのに。死に掛けた女達を見て来たのに、君だけは助けなければと思った。 土と埃と、血に塗れた君を無視できなかったんだ。…今はもう、俺は君なしではやっていけない。お願いだから、俺を置いていかないでね…。」
運転席から助手席に向かって手探りで彼女の手を取って。
口元に引き寄せて、口付ける。
しかし、彼女は嘲笑う。
「どうやって逃げるの?死ぬ事も出来ないのに。」
彼の手を握りながら。
ふと考える。
そう、死ぬ事は無い。
どんなにもがいても足掻いても。
それでも、二度と歳を重ねる事のない体。
どんなにもがいても足掻いても。
朽ちる事のない、この命。
どんなにもがいても足掻いても。
逃げれば、地の果てまでも追いかけてくるこの男。
自由を手にして。
使い切れないほどの財を有し。
それでも。
この運命から逃れたいと願う自分が居て。
そっと口にする。
「私はずっと…。」
逃亡者。




 
東に向かってフリーウェイを走る車窓から、生温い風が入り込んできた。




何百年か前に彼女の頬を掠った湿風だった。



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