そのせいなのか、5月晴れ……からは程遠い雨雲に覆われている空。
この数日間降り続いた雨は、まるで台風のように激しかった。
タロはどうしているんだろ?
あの日以来この数日間、タロからも坂口さんからも便りが無い。
坂口さんはオンライン上にも姿を現さないし、メールすら来ない。
多分妹さん絡みの何かで忙しいとは思うけれど…。
近々連絡を入れてみよう。うん。
タロは……。
在宅勤務が許されている事をいい事に、大量の書類や資料を仕事場から家に持ち帰ってきたあたしは、PCデスクに座って業務をこなしつつも、なんとなく集中できないでいた。
IT用語用の辞典を取ろうとして、ふと棚の上の、前にタロが置いていったクタクタリボンの2本の金メダルに気付く。
……。
「口実、だよねぇ…」
このメダルをW大のタロに届けてあげようかな。
そう。それだけ。
「時間が経つと、それだけ返しづらくなるってモンよね」
タロが置いていった携帯の番号の事を思い出し、スケジュール帳の中に挟んであった小さな紙切れを取り出す。
手にとって、携帯の利用契約書か何かを破ったらしきその紙片に汚い字で書かれた番号を凝視する。
うーん。
なかなか書いてある番号にダイアルできない。
あたしもしかして、緊張してる?
たかが、タロごときで?
「そ、そーんな事ないじゃない。ねえ?」
周りに誰も居ないのに空想の人間に同意を求める。
「よしっ」
ピッポッパ、と番号を打つ。
トゥルルル…トゥルルル…
6回ほど呼び鈴が鳴って、そろそろ切ろうかと思い始めたその時。
「もしもし?」
女の人が電話に出た。
あれ?
これ、タロの携帯じゃ……?
「もしもし?山田のお知り合いの方ですか?」
しゃきしゃきと話す電話の声の主は、あたしの動揺を電話の向こうで察したかのように急いで続ける。
「はい、あの、小俣と申します。えっと…タロ…山田太郎君は?」
「小俣って、小俣水名子さん?ミーナさん?」
「ええ」
どうして電話の女の子、あたしの名前知ってんの?
「あたし、同じ寮に住んでいる佐々木翠です。ずっとミーナさんの連絡先探してたんですよ」
「あたしの、ですか?」
「山田、2日前から風邪で寝込んでいるんです。月曜の朝、びしょ濡れの姿で寮のシャワールームで倒れてるのが見つかって…」
倒れて…?
月曜って、あのカフェでの出来事の翌日だ…。
まさか、ねえ?
「あの、あたし太郎君の忘れ物を届けたいんですけれど…」
「今からですか?」
「今日が無理なら彼が元気になってからでも…」
「いや。今からでも大丈夫ですよ。そちらのご都合が宜しければ。W大のキャンパス内の若葉寮に着いたらあたしに電話ください。寮生が居ないと中に入れないんで。この山田の電話に電話してくださって構いませんから。ええっと…キャンパス内広いんで、寮の場所を言います。紙とペンいいですか?場所は……」
「ちょ、ちょっと待ってください!ええと、ペンペン…」
この娘、テンポ速すぎ!
いや、てか、一体誰?
もしかして、タロの彼女なのかな?
タロの携帯に勝手に出てるし、タロの事良く知ってるみたいだし……。
ちょこっとだけ、複雑な気分。
あれ?なんで複雑なんだ?
良い事じゃないの、ねえ。
タロにもタロの青春があるんだ。うん。
「では、2時間以内にそちらに参りますので…」
大学構内での大まかな寮の位置をメモに書き取ると、あたしは電話を切った。
W大のキャンパス内にある、『若葉寮』なんてベタな名前の、でも比較的新しく建てられたらしい近代的なマンション風の学生寮の前に着くと、あたしは早速その『佐々木翠さん』に電話をした。
「あ、着きましたか?ちょっと待ってて下さい。あたし下に行きますんで」
そういうなり、ブチッと電話を切る。
1分もしないうちに建物の中から
「こっちでーす」
と、手を振った人影が見えた。
あれ?
すっごいデカくないこの娘?
中から現れた『佐々木翠』さんは、健康そうに日焼けして肩幅が広く、筋肉質ながらもすらりとした体型をしていた。
そして髪の毛はベリーショート。
身長はゆうに175はあるんじゃないか?
電話でのイメージと違う。
いやね、電話でのイメージって言っても、ただもうすこーし髪が長くて女の子っぽい感じの子かなーと、勝手に想像してただけで...。
ちょっとモヒカン気味に短めの髪を頭の中央付近で立たせ、白のタンクトップに迷彩柄のカーゴパンツを穿いている引き締まった肢体の彼女は、胸さえ見なければどう見ても男の子だ。
「へえ、山田が言ってた通り、キレイな人じゃん」
独り言のように呟きながら、あたしのつま先から頭のてっぺんまでジロジロと一通り観察する。
なんか…酪農市場の牛の気分。
ドナドナ~♪
「はじめまして」
数回視線が上下して、あたしの顔の位置で止まる。
目が合うと、翠さんは軽く会釈した。
「こちらこそはじめまして。あの、タロ…太郎がいつもお世話になっているみたいで」
「はい。お世話しまくってます。迷惑なくらい」
ははははっ、と彼女は豪快に笑う。
「あたしも4月に入ったんですよ。この大学。山田は日本の水泳界じゃ超有名だし、全国大会とかで何度か会ってたんですけど、偶然この大学入って、お互い水泳部で、寮も同じで、一番最初に仲良くなったのが山田なんです。あ、ちなみにあたしは女子競泳の方ですよ。こう見えても」
すらりと長身の彼女は、おしゃべりしながらあたしを寮内に誘導する。
この子、肌の色も髪の毛の色も褐色だけど、目の色はグレーに近い薄い黒色をしてる…。
その瞳が、クールでキツそうな雰囲気を醸し出してる。
化粧っ気が一切無くて、それでもこんな整った顔をしているなんて......
なんてラッキーな!
ライナー、シャドウ、マスカラにファンデの重ね塗り無しでは外出できないあたしには、羨ましい限りだわ。
「山田はいつもいつもいつもいつもミーナさんの話してますよ。ミーナがこうしたとか、ミーナがああ言っただとか色々。だから初めはミーナさんが山田の彼女かと思ってましたよ。後から全然勘違いだって判明しましたけど。」
「ああ、あの子馬鹿なんです。アホの単細胞なんです。いちいち言ってる事相手にしない方が身の為ですよ」
「え?」
翠さんは驚いたように立ち止まる。
「あいつ、馬鹿じゃないですよ。見た目トロいけど実はすっげー頭の回転速いし、集中力すごいし。この大学だっていくら競泳の日本記録保持者でも、センター試験と英国社数の入学試験でまともな成績取ってないと特別入試でも入れないんですよ」
あれ?
成績学年最下位だったんじゃ……?
翠さんはエレベーターの前まで来て「上」ボタンを押す。
「飛び込んでからの潜水時間とかターンしてからの50メートル間の距離とか、あいつ全て頭で計算してるんですよ。普通競泳で泳いでいたらそんな事考えてる 余裕なんてないのに。だから、ストップウォッチとの時差の狂いが全くないらしい。自分で何分何秒にどこを泳いでいるか知ってるから。それに、一緒に競って る奴らがどの位置で泳いでるのか感覚で全部分かる、って言ってましたよ」
「へえ。それってすごいことなんですね、きっと」
「いや、息継ぎなしの潜水時間なんかギネス級だし、天性のアスリートだと思いますよ。あいつは」
よ、良かったね、タロ。
いい友達を持ったね。
あんたものすごーく褒められてるよ。
......それにしてもこの娘。
あたしは改めて、この背の高い佐々木翠さんに見入る。
何故かこの子には、人を魅了するカリスマ...というか見惚れさせる何かを持っている。
メス(♀)よりオス(♂)のニオイがプンプンするけど。
「あいつ...」
翠さんは続ける。
「ミーナさんと婚約してるから、他の女とは付き合わないって言ってるんですけど、ホントですか?」