風も無いのに仄かな匂いがした。
置いてある香炉は今日一度も使用された形跡がないのに、微かな伽羅の芳香が揚屋の室内に漂っている。
上客の男達の話の相手をしながら白い手で静かに酌を汲む女の頭には、小鈴のついた鼈甲の歩揺が挿してあった。
彼女が動くたびに豊かな黒髪からは伽羅枕で染み込んだ薄い香りが男達の鼻を擽る。
禿や他の遊女達と他愛ない世間話をしながらも、客の双眸は全て一点に注がれていた。
木蘭。
江戸の三天女の一人。
胡蝶太夫にも負けない作法と教養、そして絶世の美貌を兼ね備えている。
着物から覗く白い肌と、優雅な身のこなし。
目を合わせればその妖しく艶を帯びる黒い瞳から憑かれたように目が離せなくなる。
花びらの様な赤く潤んだ唇から零れ出る声は、か細いながらも良く通って男達の耳に心地よく残った。
彼女の客は皆、その細い指で奏でる琵琶で心が洗われ、散りゆる春の桜の如き儚い舞で一時の夢を見ることが出来た。
儚き夢と幸福をを与える、美しい梅山の遊女。
松田屋の格子、木蘭にはそんな噂がたっていた。
なーんていうのは全く持って仮の姿。
もちろんそれは最高遊女としてのあたしの「演技」なのだ。
噂って言うのは怖い。
だって実物のあたしは、巷が噂しているようなおしとやかな美人でもなんでもないんだもん。
顔なんて化粧をちょっとすれば何とかなるし、作法なんてちょっと優雅な振りしてれば良いだけだし。
本物のあたし、木蘭は巷の男達が夢見ている姿とは全然違うと思う。
だって、趣味は脱走(もちろん見つかったらこってり絞られるけどさ)して江戸の町を散策する事だし(苦笑)。
あと禿達や、あたしの本性知ってるお客様との気楽なお喋りとか、囲碁やら百人一首とかのゲーム遊びも好きだしね。
あ、誤解しないで!
もちろん、身売りされた日からたまりにたまった借金返済の為に明るく毎日頑張ってるわよ!!
禿時代は嫌々ながらも毎日色々習い事をさせられたしさっ。
まあ、頑張ったお陰で二十になった今は客を選ぶ事が出来る格子まで登りつめられたし。はっはっは。
これも才能かしらん??
なんて独り言言っていたら隣であたしの髪を直していたあたし専属の禿のおりんが冷たい目でひとこと…。
「それは木蘭姉さまじゃなくてお客様のお陰でしょっ」
って。
うっ……図星。
修正修正。
これもひとえにあたしのお客様のお陰なのよね。
だからはっきり言ってこの仕事は嫌いじゃない。
もちろん、最初は男の人のお酌やお喋り、それに同衾なんて行為が嫌で嫌でたまらなかった。
でもある日、今はもういないけれど尊敬していた楓姉さまが、お客様は心のケアを欲しているのよ、ってアドバイスしてくれたんだよね。
あたしに会いたくて、普通の人だったら家が破綻しちゃうくらいの大金をはたいて来るのよ?
あたしなんかと擬似恋愛(っていうのだろーか?)をしたくてわざわざ遠くからやってくるのよ?
どう考えたって邪険には出来ないでしょ?
それに、皆が皆エッチ目的のお客じゃないって事も分かったし。
だから、ね。
彼ら、パトロンとも言えるあたしの大切~なお客様の事をこれから日記につけようと思っているの。
もちろん内緒で、ね(ウインク☆)。
だって、彼らのお陰で今のあたしがあるから。
一人一人が、あたしにとって大切な人達なんだもん。
あ、新造が呼びに来た。
今日は誰が揚屋に来たんだろ???
ちょっと今から行ってきまーす!!!!
それでは!!