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夢とキスマーク    07.11.2007
“夢とキスマーク”


 翌日、ダラスからニューヨークに戻った晩、私は一ヶ月ぶりに恋人と会うことが出来た。
お互いにスケジュールを調整しても、彼とは月に二度会えたら良いほ うなのである。

いわゆる青年実業家で、全米にある日本食レストランチェーン「KISHI」のオーナーである彼は、私と同じくらい多忙な生活を送っていた。

 マンハッタンの高層ビルの最上階にある、美しい夜景が堪能できる彼のコンドで夕食を済ましワインを飲みながら談笑していると、突然真顔で溜め息混じりに彼が洩らした。
「君の声はいつでも聞くことが出来るけど、会いたいときに会えないからね。俺はたまに気が狂いそうになるよ。」

熱い抱擁を受けながら私の頭は別な所にあった。
彼のように気が狂いそうになるほど彼に会いたいと熱望した事があったかしら?
…無いかもしれない。
 
けれど、彼を安心させる為に嘘をつく。
「私もよ、岸さん。」

 
彼の抱擁は次第に激しくなって、気付いたら私は彼の寝室で横になっていた。
頭のすぐ上には彼の男らしい精悍な顔があった。
「俺は久々でかなり溜まってるんだけど…。」
と言いながら首筋と胸元にキスの雨を降らせる。

私は熱く迫ってくる彼に応えながらも欲望が点火するその時まで、頭の中で仁神堂(にがみどう)は明日何時に迎えにくるのかしら?
今、あの男は何をしているのかしら?などと考えていた。



 翌朝早朝。
朝の四時ぴったりにテーブルの上の私の携帯が鳴った。
案の定、仁神堂からであった。
シーツを体に巻きつけベッドから這い出る。
まだベッドで眠っている恋人に背を向けて小声で電話に出た。
「仁神堂?」
「おはようございます。社長、今下で待機しておりますので、失礼ですが三十分以内にご用意を済ませて下りて来て下さい。九時までにボストンに着かなければなりません。」
相変わらず感情のない低い声だった。
「分かったわ。すぐ行きます。」
そう短く答えて電話を切る。
話を終えて振り向くと、ベッドにはまだ子供のようにすやすやと寝息を立てている恋人の姿があった。
私はなるべく音を立てずに すばやく身支度をする。
大理石で出来た浴槽でシャワーを浴び、洗面所で濡れた髪を乾かしていると、首の後ろに薄くピンク色のキスマークが出来ているのに気 付いた。
いつものように長い髪を1つに結わず、ブラシで梳かして垂らしたままにする。
薄い化粧をして、服を着た。
そして『今夜電話します』と書いたメモを 残し、玄関先の執事に軽く会釈をして彼のコンドから立ち去った。


 まだ朝の四時半だというのに、リムジンの中で私を待っていた仁神堂は、スーツ姿で髪の乱れ一本もなくビシッと決めていた。
このロボット男はたとえ早朝であっても、真夜中であってもその風体を崩さずこんな調子だ。
私の、
「早朝から爽やかね。」
との言葉を無視して真面目な顔で、
「コーヒーはお飲みになられますか?」
と聞いてきた。
「オレンジジュースでいいわ。」
とだけ答える。

恋人は一晩かけて何度も私を欲した。
私は昨夜の激しい運動で身体的な疲労がまだ取れていなかった。
その上、低血圧の私に今頃になって大きな睡魔が押し寄 せる。
不本意ながら大きな欠伸をしてしまう。
そんな私に気付いているのかいないのか、仁神堂は車内に設置された冷蔵庫からジュースを取り出してグラスに注 いだ。
そして、
「社長、これが今日の会議の概要です。まあ熟知しているとは思いますが、ボストンに着くまで必ずもう一度目を通しておいてください。」
と事務的に言いながら、私にオレンジジュースと共に分厚い書類を手渡してきた。


「仁神堂、昨夜は何をしていたの?」

書類に目を通しながら私は何気なく聞いてみた。
あのことがあって以来不思議な事に、何故だかこの男の謎めいた私生活が気になり始めた。
「昨夜は、家で映画を観て寝ただけですが…。」
新聞を読んでいた仁神堂は顔を上げた。
映画?
この男は映画なんて観るの?
「何の映画を観ていたの?」
私は興味を引かれて聞いてみた。
が、冷たい仁神堂の、
「題名は存じ上げません。」
の一言でこの話題はあっさりと終わりを告げた。
私は再び書類に目を落とした。
暫く集中して書類を読んでいると、今度は新聞をめくりながら仁神堂が口を開いた。
「きょうは…。」
「?」
何が言いたいのか解らず私は小首をかしげる。
「少し雰囲気が違いますね。」
言葉の意味を悟るのに数秒を費やしてしまう。

ああ、髪型のことを言っているのかしら?
まさかキスマークがあるから隠しているとは言えないので、
「今日は久々に髪を下ろしてみたのよ。似合うかしら?」
とにっこり微笑みながら聞いてみた。
仁神堂は無表情で眼鏡を指で抑えながら抑制した声で
「よくお似合いですよ。」
とだけ言って、さして興味もなさそうにコーヒーに口をつけた。


どれくらい経ったのだろうか。
静かな車内で長い間分厚い書類の小さな英活字を目で追っているうちに、私に再び大きな睡魔が襲いかかった。
もう限界だわ…。
書類を傍らに置いて仁神堂に、
「少し休みます。ボストンに着いたら起こして頂戴。」
とだけ断って、目を閉じた。





 熱があるのか、私は真っ白な広い部屋の、柔らかい白い大きなベッドの上で仰向けに寝かされていた。
とても心地が良い。
ベッドの隣では今は亡き父親が、昔 の思い出の姿のまま私の看病をしてくれていた。
長いこと無言で私の髪の毛を指で梳いている。
私はなぜだか嬉しくなって、小さな子供のように父親に抱きつこうと腕を伸ばした。
首に手を回して力いっぱい抱きしめるが、父親は昔のように大きな手で私を抱き上げてくれなかった。
その代わり、私の額に優しくキスをしてきた。
何故かしら?
不思議に思って顔を覗き込むと、父親であるはずの傍らの男は逞しい恋人に代わっていた。
彼は情熱的だった昨夜とは異なり、一つ一つ確認するような、丁寧なキスを額に繰り返す。
やがて優しいキスは頬を降りて首筋に移動した。
時間をかけてその辺りを探索している。
この時点で、私の体の欲望 が疼きだした。
自分から恋人を引き寄せて潤った唇を重ねる。
その甘さをもっと味わいたくて、舌を差し入れた。
しっとりとした甘味を味わいながら情熱的に応えてくる恋人の名前を、堪えきれずに思わず呼んでしまった。
「岸さん…。」


呼んだ瞬間、恋人は固く身を強張らせ、唇を離した。

そのままベッドの上で金縛りにあったように身動きのとれない私を置いて、柔らかい羽毛が雪のように散っている白くて濃い霧の中へと背を向けて歩き去ってしまった…。



 「!?」
私は、車の急ブレーキで目を覚ました。
額を抑えながら意識を集中させる。
夢…、夢を見ていたのだわ。
「お目覚めですか。丁度良かった、もうボストン市内です。」
聞きなれた感情の無い声が何処からか降ってきた。
私は向かい側で涼しげな顔をして座っている仁神堂に気付く。
「えっ?ああ、そうね。」
ハンドバッグの中から小型の鏡を取り出して、衣服と髪の乱れを直し始めた。
「夢を見られていたようですね。」
仁神堂のその言葉に鼓動が大きく鳴った。
嫌だわ。
もしかして、寝言を聞かれていたの?
鏡から顔を上げて、
「ええ、そのようね。疲れているみたい。」
と余裕の笑みを浮かべてみた。

持っていた鏡に視線を戻しながら、意地の悪い私の中の悪魔が、
「ああ、そうそう。東京の御爺様にダラスでの調査の報告書を今日中に送っておいて。あと、今日は何故か昼食にアンパンが食べたいのよね。どこかで適当に見つけて買っておいて頂戴ね。」
と氷のような冷ややかな声で言い放った。
仁神堂は、
「かしこまりました。」
と短く答えて再び新聞を広げた。

この男はどんな状況下に置いても決してメモを取るという事をしない。
だが私の言葉を一語一句覚えていて、完璧に仕事を片付ける。

きっと昼までには、この 国で入手困難であろうアンパンを日本の食材屋かどこかで仕入れて用意している筈だ。
私も負けてはいられない。
何故か早鐘を打つ心の奥で、今夜本社に電話してこの男の身元調査を頼んでみよう、と心に決めていた。



私はその時、首の後ろのキスマークが更に濃くなっていたことなど、露ほども知らなかった。


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